歌手・木田俊之とは(第一章)

誕生

 日本の新しい時代がスタートし、人々が夢と希望に満ちあふれていた昭和32年2月2日、 

歌手・木田俊之は青森県大鰐町(おおわにまち)で、人生最初の魂の叫びを、声高らかに上げて生まれた。

 力道山のプロレス中継を見ようと街頭テレビに人々が集まり、『フランク永井の有楽町で逢いましょう』を口ずさんでいた昭和の良き時代。

 幼少時代の木田は、夏は野球、冬はスキーに明け暮れ、相撲や山遊びなど遊ぶ事が大好きな腕白少年だった。

 また、津軽手踊りをしていた祖母の影響で小さい頃から津軽民謡をよく聴き、じょんから節やよされ節などを歌いながら少年・木田は育った。

 そして、その頃のちょっと変わったエピソードを懐かしそうに話してくれた。

 『小学校の頃だったと思う。おばあちゃんは仲人も大好きだったんだけど、うちにはお爺ちゃんが居なかった。だから、子供の僕がお爺ちゃんの代わりに花嫁さんの隣に仲人役で座っていた。今では考えられないけど、その頃はそれでよかった。そして、みんなで楽しく津軽民謡を歌った。』

 

 木田俊之の少年時代は、高度成長期を迎える前の暖かい昭和の時代。

 木田の心には、ふるさと大鰐の緑あふれる自然の中で鶯の声を聞きツツジの花を眺めながら遊んだ大切な日々が今も豊かに刻まれている。

 津軽の奥座敷として四季折々の美しさと温泉の風情をかもし出している ふるさと大鰐町、魂を歌う歌手・木田俊之の人生は、この地で始まった。

 

 そして、中学の時、木田は先生から『頭の良い者は頭を使え!』

 『そうでない者は、身体を使え!』と言われた事をきっかけに勉学ではなく手に職をつけて生活をしたい!早く独立して一人で生きて行きたい!と考え、中学卒業と同時に、左官の道に飛び込むことを決意する。

 

木田俊之、15歳・・・

 

 しかし、まだ幼さが残る木田は、唯一無二の大切な女性が同じ町で生まれ、自分の人生が予想もしない方向に流されて行くことを まだ知らなかった。

 

歌との出会い

 中学を卒業し左官の道に飛び込んだ少年・木田俊之は、親方の家に住み込みながら一日も早く手に職をつけようと朝から晩まで汗にまみれながら頑張っていた。

 世の中はオイルショックで浮き足立ち、三億円事件に揺れていた時代、血気盛んな16歳の木田は暴走族に入り、警察のお世話にもなった事がある。

 しかし、仕事だけは一日も休まなかった。若く、体力と闘志がみなぎっていた!

 そんな時、ふと木田の心をつかんだものがある。それが、『歌』だった。

 木田は、その頃の思い出をこう話してくれた。

 『親方が演歌や歌謡曲が好きで、トラックの中でよく聴かされた。あの頃は、天地真理や桜田淳子、アグネス・チャンとかが流行っていたなぁ。そして、親方と一緒に歌を聴いているうちに懐メロや演歌が大好きになった。ちょうど、五木ひろしさんが『全日本歌謡選手権』で、10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンになった頃だった。

でも、俺が一番好きだったのは、大川栄策さん、大川さんは古賀政男先生の最後の弟子で、古賀メロディを歌い続けていたんだ。俺は大川さんの方が五木さんより、ずっと歌が上手いと思っていたけどその頃、大川さんは売れなかった・・・

でも、その後『さざんかの宿』が大ヒットした時は嬉しかった!本当に嬉しかった!

俺の歌の原点は古賀メロディ、そして、大川栄策さんから歌を学んだ!』

 

 そして20歳になった頃、時代の移り変わりで左官の仕事が日増しに少なくなり、木田は道具箱一つ持って、千葉県柏市に出稼ぎに出る事を決める。

 石川さゆりの津軽海峡冬景色が流れる上野駅の構内には、同じ東北の秋田や岩手からの出稼ぎの人たちがあふれていた。

 そこで、木田は『池袋のサブちゃん』と呼ばれていた斎藤さんと出会う事になる。

 池袋のサブちゃんこと斎藤さんは、ネオンきらめく東京池袋で人気の流しだったが、子供の小学校入学をきっかけに足を洗い、柏市で左官の仕事をしていた。

 歌好きの木田はすぐに意気投合、柏の繁華街で斎藤さんと歌う事が多くなった。

 

 その頃の思い出の曲は、北島三郎の『風雪流れ旅』木田と同じ青森出身:津軽三味線の名手・高橋竹山の人生を歌った せつないこの歌が次第に、木田俊之の心の支えとなって行った。

 

もう一つの出会い

 王貞治が世界新記録となる756本目のホームランを打った1977年、木田20歳の時に、人気テレビ番組『スター誕生』に応募するが書類で落選。

 同じ左官の仕事をしていた『新沼謙治』が合格してデビューを果たした。

 その頃、技術革新の荒波をもろに受け仕事が激減、木田は左官業を諦め、22歳の時 新しい仕事を求め横浜に出稼ぎに出た。

 そして、25歳の夏、お盆の帰省で田舎に帰った木田は、妻・智恵子さんと運命的な出会いをする。

 

 智恵子さんは、出会いの頃をこう話してくれた。

 『最初に出会った時、彼は弘前のディスコで踊っていて、一番目立っていた。上手い人が居るなぁ〜と思いながら席に座ったら声を掛けられ、同じ大鰐出身ということで意気投合。普段は滅多に教えないけれど、なぜか彼には電話番号を伝えた。そして、すぐ次の日に電話かかかってきた。今でも憶えているけど、彼は「もう決めたから!」と言っていた。何か変わった人だなぁ〜と言うのが第一印象だった』

 

 その1本の電話をきっかけに横浜と大鰐の遠距離恋愛がスタート、電話や手紙で世間話や相談が続いた。

 そして、その冬、木田は智恵子さんへの気持ちが大きくなり大鰐に帰る決心をする。

 大鰐に帰った木田は、夢の一つだったバスの運転手を目指して大型2種の免許を取りに自動車学校へ通い始める。

 偶然にも、同じ自動車学校に智恵子さんが普通自動車の免許を取りに通っていた。

 

 『木田は、思った事はすぐ実行するタイプ。そして、あの電話がなかったら 今の二人は無かったかもしれない。運命的な出会いと言えば運命的だった』と、智恵子さんは懐かしそうに振り返ってくれた。

 

結婚

 バスの運転手を目指し大型2種の免許を取ったが、仕事に空きは無かった。

 そこで、木田は大鰐町でタクシーの運転手の職に付いた。

 そして、26歳の9月8日に智恵子さんと結婚、タクシードライバーをしながら、休みの日は実家のりんご畑を手伝い、冬はスキーの生活。

 その頃から趣味で歌を始め、地元のカラオケ教室に通うようになる。

 木田は、『歌を始めたのは金がかからないから・・・』と言っているが、車の中で歌う事は、左官の修業時代を思い出し、懐かしく楽しかったのかもしれない。

 

 木田と智恵子さんの結婚生活は幸せに包まれ、木田27歳の昭和59年5月21日、長男:優一君が誕生、3年後には次男:春紀君が生まれた。

 巷で流行していた『くれない族』とはかけ離れた順風満帆な家庭生活だった。

 新しいお札が発行され、バブル経済を予感させた頃である。

 その年に、こんなエピソードがあった。

 

 横浜の出稼ぎ時代に応募して予選を勝ち抜いたテレビ番組『歌まね振りまねスターに挑戦』の

出演依頼が突然舞い込んで来た。

 オーディションから3年も過ぎていて、木田もすっかり忘れていたが、意気揚々と上京しテレビ出演。

 プロの歌手・三門忠司に北島三郎の曲で挑戦し、80対20で木田が勝った。しかし、木田はプロに勝った事よりも、憧れの北島三郎と並んで歌った事の方が嬉しかった。

 天にも昇る気持ちだった事を今も忘れては居ない。

 

 余談になるが、木田はこのテレビ番組のオーディションを2度受けた。

 最初は大川栄策の歌真似で挑戦したが落選、次に北島三郎でチャレンジして見事予選突破!

 テレビ撮影の時、北島の他に、鳥羽一郎とビューティペアが居た事をしっかり憶えている。

 

 また、31歳の時、同僚が木田の名前でNHKのど自慢大会に応募、木田は見事予選を通過、本選・テレビ出演を果たし、北島三郎の祭を熱唱して合格した。

 

発病

 タクシーの運転手をしながらカラオケ教室で歌うにつれて、木田の歌への情熱は高まって行った。

 木田は地域の夏まつりや歌謡団体のショーなどの舞台に立ち始め、お小遣いを稼いだりして楽しんでいた。

 仕事と趣味、そして、家族、充実の日々を送っていたこの頃が、一番楽しかったと木田は記憶している。

 

 しかし、病魔は知らず知らずに木田の身体を蝕んでいた。

 長男が3歳になり次男が生まれて間もない桜の季節、家族で花見に行った弘前公園で走り回る子供に木田は追いつけなかった。荷物を持っていたからかな?と思い、荷物を下ろしたが、それでも、子供には追いつけなかった。

    

 木田は、少し前から身体が変だと感じていたが、車に乗ってばかりで運動不足だと思っていた。

 子供の事もある、妻を楽にしてあげたいと思い、力仕事の出稼ぎを考えていた矢先の出来事に

木田は遠くを見つめるしか無かった。

 

 そんな木田を心配して、タクシー会社の社長が弘前大学付属病院を紹介してくれた。

 20日間の検査入院を終え、告げられた病名は『筋ジストロフィー』。

 『筋肉が萎縮して治る事の難しい病気。手足や首の筋肉が徐々にやせ衰えて行く』

 と、言われた時、木田は目の前が真っ暗になった。

 頭では分かっているが、自分が病気になると思うと・・・

 家庭や仕事をどうすればいいのだろう・・・

 これから先の生活は・・・

 木田は自分がどんどん小さくなって行くような感じがした。

 

 しかし、その頃の木田は病気の事を考える暇がない程、仕事も趣味も忙しかった。

 多少の不便を感じたが、身体も充分に動き、日常生活を普通に過ごす事が出来た。何よりも、木田は二児の父親になり張り切っていた。

 

 そして、発病から1年が過ぎた時、カラオケ発表会のステージでスポットライトを浴びた瞬間、目の前が真っ暗になり倒れた。

 それ以来、木田は立って歌う事が出来なくなり、歌を止める決意をする。

  

 木田のふるさと青森と北海道を結ぶ青函トンネルの利用が始まった1988年、木田俊之31歳。

 時を同じくして、80年の歴史を誇った青函連絡船が廃止された。

 

暗闇へ

診断結果は、『筋ジストロフィー』

    

発病当時の事を、妻・智恵子さんが話してくれた。

『すぐに動けなくなるわけではなく、走る時などに、ちょっと不便かな?と感じる位で、普通の人とあまり変わらなかった。 仕事も普通に出来たし・・・

 病気だって言われた時も、夫の身体は普通に動いたので実感が無くて、 ただ、「あぁ そうなんだ。筋ジストロフィーなんだ」って、受け入れるしかなかった。

 でも、時間が過ぎて、少しずつ少しずつ今まで普通にしていた事が出来なくなってきた時、 二人の間で不安が大きくなった気がしました。』

 

 木田が32歳の頃、弘前市の市営住宅の4階に引っ越しをする。

 そして、この引っ越しがリハビリに役に立ったと木田は振り返る。大学病院にリハビリに行きたいが、病院で何時間も待たされる、冬は行くだけで一苦労。

 しかし、部屋を出れば、必ず4階まで階段を登って自分の力で帰って来なければならない。思い通りにならない身体に、時折いら立ちながらも、木田は自分と家族の為に仕事とリハビリに務めた。

 

 今も、この階段を使ったリハビリで病気の進行を多少食い止められたと木田は思っている。

 実際、木田の右足は左足より太い。

 それは、階段を登る時に右の足で踏ん張り、右の足を使って歩く事が多かったからだと木田は答えた。

 

 そして、昭和から平成に移り変わるにしたがい、足は少しずつ、しかし、確実に動かなくなっていった。

 木田は、タクシードライバーから車の配車係へ転属、そして、失業。

 サウナの受付・失業保険、組み立ての仕事・失業保険、そんな生活が続き、『寝たきりになったらどうしよう?』と、木田は考え始めていた。

 そして、『筋ジストロフィー』と診断されてから6年が過ぎた36歳の時、遂に、仕事を続ける事が不可能になるほど病は進行した。

 

 家では、まだ小さな子供達が、開幕したばかりのJリーグをテレビで嬉しそうに見ていた。

 妻は、傍らで家事をしていた。

 

 木田の孤独で暗くつらい日々が始まった。

 

一人のファンの考察

 木田俊之のデビュー当時からのファンで、木田をバックアップしているメンバーの一人、福島県郡山市の工藤芳勝さんは、木田との最初の出会いを鮮明に憶えている。

  

 今から約10年前、木田がデビュー曲『蟹船』を出した頃、工藤さんは、カラオケ教室の先生をしていた。

 そして、授業の度に、何人もの歌を聴かなければならない。

 時には、一日中・・・

 どんなに歌が好きでも、さすがに疲れてしまう、授業の返りに、工藤は車の中で音楽ではなくニュースを聞こうと

 ラジオのスイッチを入れた。

 その時、流れてきたのが、木田俊之の『蟹船』、ハンディキャップを感じさせない歌声の素晴らしさ!

 聞いている人の気持ちが痛くなるほどの『命の叫び』を感じた。

 そこまで頑張っていいのか?

 この歌手は、他の歌手とは全く違う・・・

 背中を電気のようなモノが走って行くのを、工藤は感じた。

  

 郡山市民歌謡協会の講師などを務める工藤さんは、自分の耳に自信があったので、『これは、本物だ!』と、すぐに確信した。

 工藤さんは、一刻でも早く木田本人に会いたいと思い、電話帳を調べたが分からず、青森に住む知人にお願いして、やっと木田の電話番号を手に入れ、すぐに電話をした。

 そして、会った事も話した事もない木田に、いきなり仕事の依頼をした。

 

もちろん、返事はOK

  

 当時の事を、工藤さんは照れながら話してくれた。

 『突然の依頼を、10年前からの知り合いのように気軽に引き受けてくれた。うれしかった!

  木田俊之と言う人間は、歌手としてはもちろん、一人の人間として凄い。

  俺は、木田の人間性に惚れた!

  木田の魂は、本物だ!』

 

トンネル時代

 身体が思う通りに動かなくなり、仕事も出来なかった36歳からの2年間は、木田にとって真っ暗闇のトンネル生活だった。

 失業保険をもらいながら障害者職業訓練所に通ったが、世の中も、まさかのバブル崩壊に浮き足立ってハローワークに行っても仕事が無かった。それ以前に、外に出るのが一苦労だった。また、障害者年金の対象になっていなかったので、経済的な援助も全くなかった。

  

 さらに、木田の心を蝕んで行ったのが、男としてのプライド。

 妻だけを働かせている自分を許せなかった。

 男なのに妻や子供を養えない、子供達と自分を食べさせる為に必死で働いている妻の姿に感謝をしつつも、木田は自分を責めるしかなかった。

 

 誰とも会いたくない、慰めも励ましもいらない・・・

 電話にも出たくない・・・

 先が見えないつらさ、苦しい生活・・・このままでいいのか?

 明るい性格の木田は姿を消し、暗く悪い事ばかりを考える日が続いた。

  

 そして遂に、木田は死ぬ事を考えた。

 このままでは、家族の負担が増えるだけだ。

 今、死ねば生命保険で家族の生活が楽になる。

 迷惑をかけないで、死ぬ方法は何だろう?

 実際、木田の回りでも、同じ病気を気にして、自ら命を絶った人がいた。

 その人たちの気持ちが、痛い程分かった。

 木田の心にあるのは、『死』の一文字。死ぬ事を本気で考えていた。

 

 でも、悪い事ばかりではなかった。

 病気になったお陰で 木田は妻の気持ちや他の人の気持ちが、今まで以上に分かるようになっていた。

 また、子供達も小学生になり、長男はリレー出場、次男はマラソン大会で優勝。

 元気に健康に育つ子供達の姿に明日への希望を感じ始めていた。

 そして、毎日を必死に生きる妻・智恵子の姿に、木田は一番助けられた。

 彼女が必死になって生きて行く姿を見ていると、憂鬱だった心が感謝の気持ちで満たされていった。

 『自分は一人ではない。支えてくれる妻や子供達がいる。』

 木田の心の中から、死の陰が少しずつ消え始めていた。

 

妻の回想

『病気は悲しかったが、なるようになるしかない!って気持ちでした。

 自分が働いて、子供を育てる事で手一杯で、将来の事を考えている暇が無かった。

 仕事が出来なくなった木田は、朝から晩まで家の中でゴロゴロしていて、最初の頃は、パチン  コにも行っていた。

 身体が動くなら別にパチンコくらい・・・って、思っていたけれど、私が仕事や家事で疲れている時に、全身煙草の匂いをさせて帰ってきた日は、さすがに頭にきました。

 言えば喧嘩になる!でも、言わないわけにはいかない・・・

 

 そんな事が何度もありました。

 

 でも、一番つらかったのは、子供の学校の事です。

 小学校の家庭調査の用紙に、父親の職業覧があったのですが、その覧に何と書いていいのか分からなかった。

 子供の為に何か書きたいのに書く事が無い!と気が付いた時が、一番つらかった。

 今思えば、自営業とか書けばよかったのに、その時は、頭が真っ白になって悲しかった。

 子供は何も言わなかったけど、子供が外から受ける目線が、とても気になりました。

 木田と子供の事を考えると、『無職』と書けなかった自分が居ました。

 

 もちろん、その当時は、木田も今より身体も動いたし、一人で色んな事が出来ました。

 調子がいい時は、冷蔵庫にあった材料で夕食の準備をしてくれた事もありました。

 でも、普通に出来た事が出来なくなると、人は大きなショックを受けるんですね。

 身体が不自由になるにつれて、木田は沈み込んで家から出ない日が続きました。

 身につけたパソコンの技術も、指が動かなくなり断念、働きたくても、働くことも何も出来ずに、ただ家に居るだけの日々、その頃が、木田にも私にも一番つらい時期でした。』

 

当時、智恵子さんが心に決めていた事が一つだけあった。

『物事はなるようにしかならない、本人が一番つらいだろうけど、家族もつらい。

 だから、家族全員で協力しないと先に進まない。

 でも、今は助ける時ではない。

 木田が自分の力で立ち直るまで黙って見ていよう!』