歌手・木田俊之とは(第二章)

決意

 心の病とも格闘していた木田は、必死に生きる妻や前向きに頑張る子供達の姿を見て、

『生きなければ!このままでは駄目だ!』と一念発起!

 知人が紹介してくれた健康産業の仕事を始めた。

  

 その頃、同じ病気と闘いながら前向きに強く生きている人が、鹿児島県にいる事を、木田は知らされる。

 そして、ある集いに彼が参加する事が分かり上京して会った瞬間に、木田は何か分からないパワーを彼に感じた。

 木田のターニングポイントとなる『政所庄治』さんとの出会いだった。

 

 鹿児島県出身の政所さんは、6歳の頃に『筋ジストロフィー』が発病し、医師から20歳までの命と宣告された。

 また、病気が原因で子供の頃から転びやすく、学校でもよくいじめられた。

 しかし、政所さんは荒波の中を強く真っすぐに真っすぐに、20歳を大きく超えて、30年も40年も歩き続けてきた。

 そんな彼の話を聞いて、『今まで自分は何をしてきたのだろう!』と木田は感じ、雷に打たれたように目が覚めた!

 

 木田は、政所さんから励ましの言葉をかけてもらったわけではなく、ただ、見ているだけで凄いと感じた。

 そして、自分の事しか考えず、落ち込んでいる事がばからしく思えた。

 

 その日、参加者全員が得意な事を発表する時間に、木田は悩んだ末、歌を歌った。

 ステージで倒れてから歌っていない歌を、不安を抱えながら、木田は恐る恐る歌った。

 それも、生まれて初めて椅子に座りながら・・・

 歌い終わると大きな拍手が木田を包み込んだ。

 

 『自分に出来るのは歌う事だ!自分には歌がある!歌は座っても出来る!

  俺は歌で生きて行く!』

 

木田俊之38歳の決意の瞬間。

  

 その年、遠いアメリカ・大リーグでは、不屈の投手:野茂英雄が、日本人初の新人王を獲得した。

 

再スタート

 『歌で生きて行く!』と、心に決めた木田の行動は素早く真っすぐだった。

 リハビリを続けながらの歌への挑戦。

 動かない身体を誤摩化し、時にいら立ちながらの歌の修行は、決して楽ではなかった。

 しかし、木田に残されたのは『歌の道』だけだった。

 『俺には歌しかない!座ったままでも歌いたい!』と、自分を奮い立たせた。

  

 そして、夢の実現の為に、木田はある作戦を考えた。

 『有名な作曲家や作詞家の先生が審査委員をするコンテストにだけ出よう!

  そして、その大会で優勝して自分の名前を青森県に広める。

  優勝を重ねて経歴とチャンスを作り、有名な先生に自分を認めてもらって、プロの歌手になる!』

 

 決めると行動が早い木田は、様々な歌謡コンクールに出場した。

 但し、妻・智恵子さんには内緒の参加。

 『言わなかった理由は特に無いが、一人で働いて家計を支えている奥さんに

  何となく言えなかった』と、木田は答えた。

 

 それでも、優勝して賞金を持って帰ると、子供達に自慢していた。

 そんな木田を、智恵子さんは温かく見守っていた。

 『プロの歌手になってもならなくてもいい。

  好きな事をやりながら、外に出てくれるだけで嬉しかった!』

 

 木田の暗いトンネル時代を共に過ごした妻が、久々に感じた安堵感だった。

 

 当時のエピソードに、こんな話がある。

 木田が数々のコンクールで優勝を重ね、青森県内で有名になるにつれて、『木田の歌が凄く上手い!』、『ファンが日増しに増えている!』

 そんな評判が、智恵子さんの耳にも入るようになった。

 しかし、彼女には全く実感が湧かなかった。

 智恵子さんは、働く事で忙しく、一度も夫の歌を聴いた事が無かった。

 

櫻田誠一杯

 数々の歌謡コンテストに参加していた木田の本領が発揮されたのは、プロになると決めた2年後の1997年、木田俊之40歳の時。

 大相撲は若貴ブームで連日満員御礼が続き、サッカーはワールドカップ初出場決定に湧いていた。

 そんな力を借りるかのように、木田も連戦連勝を続けた。

 

 1997年4月:陸奥新報杯・桜まつりカラオケ大会:優勝、

 7月、上原げんと杯:優勝、

 そして、翌年98年5月:全国りんご追分コンクール アラカルト部門:グランプリ獲得!

 7月:全国健康ランド連盟杯 全国素人カラオケ 青森健康ランド決勝大会:優勝。

 

 『有名な作曲家や作詞家の先生が審査委員を担当するコンテストだけに出場して、優勝を重ねてチャンスを作り、プロの歌手になる!』

 

 まさに、有言実行、破竹の勢いだった。

 

 そして、運命の1998年 平成10年8月15日、木田は『第4回櫻田誠一杯 全国演歌大賞』に挑戦した。

 

 コンテストの冠にもなっている櫻田誠一さんは、木田の生まれ故郷青森県大鰐町に近い尾上町(おのえまち)出身。

 北島三郎さんの『北の漁場』などを手掛けた作曲家で、日本作曲家協会の役員を務める日本作曲家界の重鎮的存在だった。

   

 木田の気持ちは一つ、

 『尊敬する櫻田先生が審査を担当するこの大会で優勝して、

  プロの歌手として櫻田先生の歌を歌いたい!』

 しかし、木田は優勝しなくても、櫻田先生に自分の思いを伝え、櫻田先生の曲を頂くお願いに伺う決心を固めていた。

 だからこそ、必ず優勝したかった。

 優勝して先生に会いに行きたかった。

 

 木田は、この大会に歌手生命の全てを懸ける覚悟でステージに登った。

 そして、エントリーナンバー12番:木田俊之は、櫻田誠一先生が作曲した『蟹船』を歌い始めた・・・

 

優勝

 1998年 平成10年8月15日

 『第4回櫻田誠一杯全国演歌大賞』に挑戦した木田は、希望と不安が交錯する中、結果発表を  待っていた。

 そして、優勝者が発表された。

 『第4回櫻田誠一杯 全国演歌大賞 優勝は・・・

  エントリーナンバー12番、蟹船を歌った木田俊之さんに決定しました!』

 

 木田の名前が優勝者として告げられると、櫻田誠一先生がステージに上がり、木田に握手を求めた。

 座っていた木田は立ち上がり、先生の手を握った。

 そして、力が入らない手で賞状を受け取り、自分よりも大きなトロフィに身を寄せて、優勝の感触を肌で感じた。

 

 木田の目には、涙があふれていた。

 妻:智恵子との出会い、結婚、子供の誕生、発病、そして、死ぬ事も考えた闘病時代。

 家族の助けがあったから、ここまで来る事が出来た事を木田は思い返していた。

 

 そして、会場で見守っていた智恵子さんは、木田の名前が呼ばれた瞬間、今までの事がスーッと水に流れて行くような、

 潮が引いて行くように、心の中から何かが無くなって行くのを感じていた。

 

 表彰式の後、チャンピオンとして もう一度歌った『蟹船』

 木田は、優勝曲『蟹船』のメロディが好きだった。

 この歌を歌うときは、両親の顔が必ず浮かんだ。

 休む事無く働いている両親と曲のイメージが交錯した。

 木田は涙声になりながらも力強く歌った。

 41年の人生を親に感謝する為に、妻と子供にありがとうの言葉を伝える為に!

 

 そして、歌いながら、木田は確信した。

 

 『これで、プロの歌手になれる!』

 

 

デビュー

 櫻田誠一杯で優勝した木田は、櫻田先生と親交がある宝飾デザイナーの宮川キクヨさんを通じて先生と会う事になった。

 木田は、希望と不安を胸に櫻田誠一の門を叩いた。

 先生は、歯に衣を着せぬタイプと言う事を木田は知っていたので、何を言われるか不安だった。

 『駄目だ!』と言われたら、プロの歌手にはなれない・・・

  

 木田は、自分の歌への思いを伝え、櫻田先生作曲の『蟹船』と『こころ』を歌う事を認めて頂きたいと、素直にお願いした。

 先生は、即座に承諾してくれた。

 そして、その瞬間、木田のプロデビューが決まった。

 

 木田と櫻田先生を引き合わせてくれた宮川さんは、

『木田君はハンディがあるのに頑張り屋だ!歌の勉強もよくしている。
 普通の人よりも、何倍も何倍も努力している』と先生は言っていた、

桜田さっむぁ、そんな姿と歌に感銘をうけたのでは?と、話してくれた。

 

 後日談になるが、櫻田先生は前回の大会で木田が準優勝した事を憶えていなかった。

 『この1年で木田の歌が飛躍的に上手くなった、歌に力と味が付いてきた』と、先生が言ってくれたらしいが、木田はお世辞だと思っている。

 

 そして、翌日から、嬉しい忙しさが始まった。

 レコード会社との打ち合せ、デビューやレコーディング・写真撮影の段取り、地元の応援団の皆さんへの報告や挨拶回りなど、木田と智恵子さんにとって、初めての事ばかりだった。

 

そして、1998年12月4日、木田俊之は筋ジストロフィーというハンディを抱えながらキングレコードからプロとしてデビューを果たす。

 

木田俊之41歳。

 

長野オリンピックに沸いた1年は幕を閉じようとしていたが、『木田俊之』の歌手生活は、スタートしたばかりだった。

 

夫婦再デビュー

 1998年12月4日、デビューの日、木田は弘前市内のCDショップや有線放送局を回り、デビューの挨拶と応援のお願いをしていた。

 そして、傍らには、さりげなく肩を貸している智恵子さんの姿があった。

 二人は、お店に列んでいる木田のCDを見て、嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになっていた。  

 

 あるお店では、自分のCDが北島三郎の隣にあるのを見て、嬉しくて涙が出そうだった。

 また、他のお店では、ファンにサインを頼まれ、照れながらも気さくに応えていた。

 

 そんな木田を見る智恵子さんも優しい目をしていた。

 結婚からデビューまで16年、発病からは13年、木田を支え続けてきた智恵子さんの胸の中は、

 『好きな事が見つかってよかった!デビュー出来てよかった!』 

 その思いで一杯だった。

 

 智恵子さんは、木田の生きる支えが歌だという事を痛い程分かっていた。

 しかし、木田を支える事を一度も義務だと感じた事が無かった。

 一人で行動出来ない木田を、妻の自分が手伝うのは普通の事、木田の歌を支える事、木田を支える事は、自然の成り行きだと思っていた。

 『木田の歌を手伝っているうちに忙しくなって、

  自分は仕事を辞めて木田と一緒にやるようになった。

  回りの人は『大変だね!?』って言うけれど、誰でも同じ状況になれば、自分と同じ事をするはず、特別の事じゃなくて、当たり前の事を当たり前にしているだけ。』

 

 智恵子さんは、聞かれる度に、そう答えてきた。

 

 そんな智恵子さんの唯一の心配事も、やはり木田の事だった。

 『木田は、いつまで動けるのか?この先、どうなるのだろう?』

 正直、不安は沢山あった。

 でも、そんな時は、こう考えるようにしていた。

 『何かが起きるのならば、起きた時に考えればいい!

  今の生活が大切、今を大事にしよう!

  今を大切にしながら、楽しい新しい光が見えれば、それはそれでいい!』

  

 12月4日は、夫婦再デビューの日でもある。

 

新たな夢

 デビューから一週間後の12月11日に、木田は生まれ故郷の大鰐町に錦を飾り、『木田俊之デビュー記念・チャリティコンサート』を開催した。

 会場には、約600人の観客が集まり、大入り満員になった。

 木田の心の中には、『スタートラインに立った自分の歌を故郷の人々に聴いて欲しい!

 自分の歌を通じてパワーを分ける事が出来たら嬉しい!』 

 そんな思いがあった。

 

 コンサートは、友人の企画で全て手作り。

 木田は、入り口で一人一人と握手をして出迎えた。

 みんなの『頑張れ!』の声がうれしく、心に染みて涙が止まらなかった。

 

 また、木田のご両親や妹さんも楽しみにしていた。

 この日、母の木田ノブさんは、『ファンあっての木田、ファンの皆さんを大切にして欲しい』

 父の木田味津夫さんは、『町の人がみんな応援してくれた事に感謝。これからが楽しみ』

 そう言って木田を励ました。

 そして、楽屋では、智恵子さんが

 『コンサートなんて夢のようだ。コンサートなんて一生出来ないと思っていたのに、出来ただけで凄い!』

 そんな思いを感じながら、木田に衣装を着せていた。

 

 木田は、1時間で12曲を熱唱!

 そして、故郷・大鰐でのコンサートをきっかけに、木田はある決意を胸に秘めていた。

 

 それは、紅白歌合戦出場!

  

 ふるさとのステージで歌いながら、木田は体中を熱いモノが駆け巡って行くのを感じていた。

 ハンディキャップがある自分には厳しい世界かもしれないが、自分の姿を見て頑張る人が一人でも出れば、何か人の役に立てればいい。

 そして、自分に恥ずかしくない歌を歌い続けよう!

 

 木田の新たな夢への挑戦が始まった。

 

木田と新庄サポーター

 新庄市で毎年開催されているチャリティ歌謡ショーを主催している井上市作さんは、木田俊之と初めてあった時に、『男が男に惚れる身震いするような感動』を憶えた。

 二人の出会いは、サッカー日韓ワールドカップが開催された2002年。

 井上さんが、舟形町公民館の歌謡ショーに出演した木田のステージを見て一目惚れ、すぐに、自分たちが主催する企画に出演をお願いした。

 それから毎年、新年を迎えた1月に木田は新庄市民文化会館のステージで歌を披露している。

 

 残念ながら、木田はメインゲストではない。

 しかし、木田の歌を聴きたいと、会を重ねるごとに多くの人が集まるようになった。

 そして、木田も新庄の人々との交流を楽しみにしている。

 そんな姿を見て井上さんは、『本当に歌が好きな人なんだなぁ。この人と出会えてよかった』

と思っていた。

 

 そして、井上さんと一緒に歌を楽しみ、イベントスタッフでもある女性は、素直に、『木田さんの全部が好きだ!』と公言してやまなかった。 

 彼女は、友達が出演するステージを見に行った時に、初めて木田の歌を聴いた。

 ステージで歌う木田の姿を見て、障害を持っている自分の父と重なった。

 父親の苦しみを側で見てきた彼女には、木田の気持ちが手に取る程に分かった。

 彼女は、木田の追っかけをする程のファンになってしまった。

 

 また、老人ホームを手伝っている方は、不思議な体験を話してくれた。

 ある日、ホームで生活している十数名のお年寄りが木田のステージを見に行った。

 みんな、余り表情を変えることなく毎日を過ごしていた。

 しかし、帰ってきた時、全員が『よかった!感動した!』と、笑顔で帰って来た。

 『木田マジック!』と、彼女は言った。

 

 その他にも、『奥さんと二人三脚で歌っている姿に感動、自分達も頑張ろうと思った』

 『誰とも気さくに話をしてくれて嬉しい』『パワーをもらった』などの声を聞いた。

 また、井上さんも、『今年も木田さんのステージを楽しみにしている。

 何度聴いても飽きない。毎年ゲストに呼んで欲しい!』と、お客さんに言われ続けていた。

  

 そんな新庄のファンたちは、東北各地を回って木田のステージをサポートしている。

 『多くの人に木田さんのステージを観て欲しい!手伝うことがあれば飛んで行く!』

 みんな、笑顔で話してくれた。

  

 木田の歌は、確実に人の心を掴み、生命の力に溢れている。

 

ふたり道・岩木山

 デビューから2年後の2000年、世の中がミレニアムブームに沸く中、木田は『キングレコード・ヒット奨励賞』を受賞する。

 そして、さらに嬉しい知らせが届いた。

 櫻田先生が、木田にオリジナル曲を作ってくれる事になった。

 その曲が、デビュー第2弾シングル『ふたり道』。

 

 『木田は、奥さんの助けがないと駄目だから夫婦の歌を作ろう』と、櫻田先生が始めてのオリジナル・ナンバーを作ってくれた。

 

 歌の中には、万葉集にも出て来る四季折々の美しさを表した言葉『雪月花』が、モチーフとして使われている。

 

 『雪の中を苦労して、最後に花になれ』

 

 そんなメッセージが込められていると、木田は受け取った。

 

 そして、それ以上に感動したのはカラオケの録音の時だった。

 曲がアレンジされて、オーケストラの演奏でカラオケを録音している時、デビュー以上の感動が身体を駆け巡った。

 木田は、この時の感動が今でも忘れられなかった。 

 録音したばかりのカラオケをカセットにダビングして、東京からの帰り道、青森空港に着くと、すぐに車の中で何度も何度も繰り返し聴いた。

 もちろん、傍らに座る智恵子さんも喜んでいた。

 

 そして、『ふたり道』のカップリング『岩木山』は、冒頭に祭の音を入れて木田バージョンに仕上げた。

 『岩木山を歌うと、打ちひしがれそうになる自分が奮い立って来る。

  これが、生きている証。

  せっかく生まれてきた人生をどう生きるか、歌の心をどうお客様に伝えるか、勝負です』と、木田は当時のインタビューに答えた。

 

 しかし、木田は身体が少しずつ動かなくなって行くのを確実に感じていた。

 プロならではの様々なプレッシャーと体調管理の大切さが痛い程分かった。

 移動は奥さんの肩を借りて歩いた。

 マイクは握れないから、肩で持ち上げるようにした。

 

 顔は笑顔・・・

 

 プロのつらさと厳しさを木田は感じ始めていた。