歌手・木田俊之とは(第三章)

白岩との出会い

 プロデビューを果たし、順調に進んでいるかに見え木田にも悩みがあった。

 デビュー当時は、回りも盛り立ててくれたが、テレビやラジオ、新聞の取材も最初だけ。

 『プロは、デビューするより2年目3年目がつらい。続けられるだけでも感謝!』

 以前聞いた、先輩の言葉が身にしみていた。 

 木田がみちのく歌謡文化連盟の白岩会長と会ったのは、ちょうどその頃、デビューから3年が過ぎた2001年、木田俊之44歳の時だった。

 

 以前から、福島在住のみちのく歌謡文化連盟・中村理事が、『素晴らしい歌手がいるから、是非聞いて欲しい』と白岩会長に頼んでいた。

 その願いは、2年間聞き流されていたが、山形県歌謡新人王大会のゲストに木田が迎えられ、

二人は初めて会った。その時、白岩は思った『病を抱え、車いすで本当に歌が歌えるのか?』

 

 そんな疑問もあったが、白岩は木田の歌を聴きたかった。

 白岩は予選審査に参加する予定だったが、審査室と逆方向のステージに向かい木田の歌を聴いた。

 そして、白岩は直感した。

 『感動を与えてくれる本物の歌手だ!』

 ステージで椅子に座りながら歌っているとは思えない力強さと魂の歌声!

 1曲歌っただけで、拍手が鳴り止まなかった。

 

 それから間もなく、木田は白岩に誘われた。

 キングレコードで2枚シングルを出したが、経済的には苦しかった。

 子供が進学するお金も必要だ。

 『新天地で、すこし気軽に楽しく、志を同じにする白岩会長達と一緒に歌ってみたい』

 葛藤が幾日も続いた・・・

 

 そんな木田の心を決めさせたのは、白岩の歌への熱い情熱だった。

 白岩は、歌謡業界の中で苦労を続けている歌手と作家の為に、新しいレコード会社『みちのくレコード』を作ろうとしていた。

 諸事情で一時はあきらめていたが、木田の歌を聴いて、白岩は木田を『みちのくレコード第1号歌手』にすることを決意していた。

 

 そして、思いは通じた。

 翌2002年5月、みちのくレコード第1弾作品が木田の歌で誕生した。

 

再デビュー

 

 2002年5月、みちのくレコード第1弾として、木田俊之『奥羽山脈/じょんがら恋来い』がリリースされた。

 

 CDナンバーは1番。

 

 『ここが一番踏ん張りどころ、向かい風でもへこたれるな!』

 まさに、奥羽山脈の歌詞のごとく、木田は周囲の期待に応えて、7000枚を超える販売を達成、

みちのくレコード第1号歌手としての期待に見事に応えた。

 

 しかし、その頃から木田は歩くことが日増しに不自由になり、車いすで移動することが多くなった。

 また、マイクを持つことも難しく、スタンドマイクで歌い始めた。

 それでも、木田の歌声と笑顔は崩れる事なく、いつも前を向いて、妻:智恵子さんと二人三脚で歩いていた。

 

 一方、木田をみちのくレコードに誘った白岩会長は、胃の悪性リンパ腫にかかり、生死を心配されながら入院生活を送っていた。

 その白岩を支えていたのは、大好きな歌。白岩にとって歌が生き甲斐だった。

 『みちのくレコードを志半ばで挫折したくない!

  山形県歌謡振興会の皆さんの歌声を聴きたい!

  そして、もう一度、みんなと一緒に歌を歌いたい!』

 その強い思いが生きる力となったのか、奇跡的に大病を乗り越えた。

 同時に、白岩は時間と闘いながら歌に生きる木田の気持ちが身にしみて分かった。

  

 そして、木田が47歳になった2004年5月20日、みちのくレコード第2弾シングル『親心/北転船』がリリースされた。

 

 『親心』は、結婚で旅立って行く子供を送り出す、親の気持ちを歌った歌。

 木田は、いつか子供の結婚式で、この曲を歌いたいと思っている。

 その二人の子供は、木田のやる事に何も言わないし、木田も聞いた事がない。

 『多分、好きな事やっているな!って、思っているんだろうな!

  あいつらより、俺の方が子供だよ!』と、

 木田は、自分が金屏風の前で歌う姿を想像しながら話してくれた。

 

こころ

 木田は、デビュー当時に書いた『こころ』という手記で、次のような事を話している。

 

 心には、良い心と悪い心があると思いますが、ある住職の方が『あいうえおの心』と『かきくけこの心』があると話してくれました。

 人間は、「あ」明るく、「い」生き生きと、「う」嬉しそうに、「え」笑顔で、「お」おもしろく、という明るい心と、「か」悲しそうに、「き」きつそうに、「く」苦しそうに、「け」けだるそうに、「こ」怖そうに、という暗い心、この二つのどちらかを持って生きているそうです。

 そして、それは顔に表れる。例えば、好きなスポーツや遊んでいる時は、「い」生き生きと、「お」おもしろく、嫌いな勉強のときは、「き」きつそうに、やる気のない時は、「け」けだるそうに、と言う具合です。

 

 私もあの暗いトンネルの中にいた2・3年は、「かきくけこの心」の心に9割以上占められていたと思います。

 残りは、「あいうえお」の表情の二人の子供に救われ、「あいうえお」の心でいられたのだと思うのです。

  

 

 『経済・健康・心』が幸せの条件だとすると、木田の人生は、健康に恵まれなかった。

 しかし、木田には『豊かな心』があった。心を込めて歌い、人との出会いを大切にしながら『あいうえお』で接し、時にパワーを与え、時にパワーを貰ってきた。

 

 木田は、歌手としてあるこだわりを持っていた。

 それは、『歌に魂を入れる事』

 自己陶酔になることなく、花の気持ちで歌う事を心がけていた。

 『花は、一生懸命咲いて散ります。

  そんな花のように、格好つけることなく、自分らしい花になれた時、聴く人に心が伝わる』

 

 この思いを心に秘めて、木田は歌い続けてきた。

 

ねぷた〜祭魂

 木田との出会いは、桜まつりがきっかけだったと弘前桜まつり協賛会・副会長の山崎勝男さんは話してくれた。

 

 山崎さんは、弘前桜まつりで開催されているステージの演出を担当している。

 ある時、会長の奥さんから『木田さんと歌ってみたい』と言われたのをきっかけに、何気なく木田をゲスト歌手として招いた。

 そして、山崎は驚き感動した。『こんな凄い歌手が、弘前に居た!』

 

 その山崎さんの提案で生まれた曲が『ねぷた〜祭魂』

 『青森ねぶた、五所川原立ね武多には、プロの歌手が歌う歌があるが、弘前ねぷたには無い。

  弘前ねぷたの歌を作れないだろうか?』

 常々そう思っていた山崎は、青森県岩木町(まち)出身の津軽ねぷた絵師『八嶋龍仙』先生に相談した。

 そして半年後、八嶋龍仙作詞・花笠薫作曲による木田俊之みちのくレコード第三弾『ねぷた〜祭魂』が誕生、2006年2月リリースされた。

 

 八嶋先生は『祭の歴史や躍動感を感じられる歌詞』を、花笠先生は『広く愛され、リズムが良く盛り上がる曲』を、そして木田は、『10年後50年後、100年後に弘前に歌を残したい!歌の魂は残る!』、三者三様の思いが込められて曲は作られた。

 

 もちろん、CDジャケットの絵とタイトル文字は、八嶋龍仙先生の筆で書かれた。

 

 『色んな人の思いと心が入って、おいしい鍋のような曲になった。

 心で歌う・魂で歌う木田さんだからこそ、この「ねぷた〜祭魂」がある!

 生きている証を歌ではっきりしめしている木田さんを、これからも身体の動く限り応援して行きたい』

 そう語る山崎の思いも熱く強かった。

 

 カップリングの『じょっぱり女房』について、木田は余り多くを語ろうとしなかった。

 なぜなら、この曲は妻・智恵子さんの歌だから・・・

 木田は、この歌を歌う時は奥さんを思って歌うようにしている。

 そして何時も、思い過ぎて泣きそうになっていた。

 

 『じょっぱり女房は、生まれ故郷の大鰐の地名も入っている大好きな曲!喧嘩もするけど感謝も感じる、妻は強い!』

 最愛の妻であり歌手・木田俊之を支える智恵子さんの歌『じょっぱり女房』

 

 木田と智恵子さんは、2008年で結婚25周年、銀婚式を迎えた。

 

 

10周年

 2007年12月7日、木田は弘前市でデビュー10周年記念ディナーショーを開催した。

 そして、会場には、リハーサルを熱く優しく見つめる若者がいた。

 木田の長男・優一君だった。彼は、音合わせをする父をじっと見つめていた。

 また、弟・春紀君は名古屋から駆けつけ、車いすを押して手伝っていた。

 二人の子供達も、それぞれのやり方で父の10周年を祝っていた。

 その日、木田の家族は、皆温かく柔らかな表情をしていた。

 

 一方、木田は本番前にバンマスにある頼み事をしていた。

 『頼む!泣いたら伴奏でごまかしてくれ!』

 会場は、幼い頃からの友人知人、お世話になった人たちや大勢のファンで満席だった。

 木田の悪い予感は当たった。

 幕が開き見慣れた顔を見た瞬間、木田は泣き崩れてしまった。

 みんなの顔が見られてうれしかった、10周年は夢のようで感謝で一杯だった。

 そして、泣いて音を外して恥ずかしかった・・・

 

 その日、木田の不思議な魅力を表すエピソードを、横笛奏者のHIROMASAさんが話してくれた。

 彼のマネージャーが、2006年のある日、千葉県の大鷲神社の前を通った。

 この神社は、音楽の神社として知る人ぞ知る神社で、ここで歌った歌手は、必ず大ヒットするという逸話で有名だった。

 そして、マネージャーは何気なく、HIROMASACDと、津軽ねぷた絵師八嶋龍仙先生の紹介で知り合ったばかりの木田の作品を神社に置いて行った。

 

 縁とは不思議なもの。二人の音を宮司さんが気に入って、その年の12月10日に開催された大鷲神社酉の市のステージを依頼された。

   

 さらに、10周年を迎えた木田に、みちのくレコードの白岩会長から嬉しい知らせが届いた。

 新曲『父母』と『津軽お岩木夢ん中』、

 そして、木田俊之全曲集『木田俊之物語〜歌こそ我が人生〜』のリリース、さらに、自伝的ストーリーの出版とラジオ番組のスタートが決まった。

  

 白岩会長は、木田の10年を集約するために、自分を初めとする全スタッフに新しい風を招き入れ、木田の新しい10年をスタートさせた。

 

 音楽伝説の神社とも、不思議な結びつきを感じさせる木田俊之。

 

 彼の夢は、終わる事なく続いていた。

 

今思う事『妻・智恵子の独白』

 私がやってきた事、やっている事は、特別のことなんかじゃない。

 妻だったら誰でもやることじゃないかな?

 『自分の時間が無いんじゃない?』と、言われる事もあるけど、時間は作るもので、あっという間に過ぎた感じかな?

 でも、夫婦二人で同じことに向かって行く事って凄いことじゃない?

 素敵!なかなかないよね!

 歌の仕事が無くなったときの方が怖いかな。

 何時どうなるか分からないから、今出来ることを精一杯やっていれば、結果はついてくると思っている。

 

 もちろん色々あるけど、お互いに同じ仕事をしていることが楽しい。

 歌の事はよく分からないが、話は通じる。

 木田の歌を褒めたことはなかった。

 回りが言う程歌が上手いかな?もう少しだと思うよ!

 でも、歌やステージに付いて、私から言われると木田は素直に話を聞いた。

 

 喧嘩もするけど、我慢する方がよくないと思うから、お互いに話し合ってきた。

 分かっているから言った方がいい。ストレスをためないようにしています。

 不平不満はあるけど、現実を受け入れた方が、気持ちが楽でしょ!

 子供は・・・何も言わないし、聞いた事がない。

 『好きなことやっているな!』と言う感じ。

 お父さんはちょっと身体が不自由だけど、相談も喧嘩もする普通の親子。 

 小さい頃は、子供が回りから何か言われていないかとか、いじめを木田は気にしていたかな?

 

 でも、10周年記念のディナーショーで、

 兄は青森県五戸、弟は名古屋から駆けつけて手伝ってくれた事が、木田は、とても嬉しかったと思います。

 

 思い出は、たくさんの人との出会い。

 どこに行っても、色んな人と出会えて話しや仕事が出来た。

 でも、ステージがうまく行かなかった時は悲しい・・・ でも、それも勉強。

 歌一つで色んな人に出会えて結ばれて、続いている事が素敵!

 

 最初は、木田も周りが見えなく自分で突っ走っていた。

 最近は、経験から学んだ感じかな?

 でも、人一倍頑張っているから、余り無理しないで、歌に対してだけ、もう少し頑張れって感じです。

 

今思う事『木田俊之の独白:出会いに感謝』

 生きていれば、暗い時も泣く時もある。

 でも、どうせ生きるなら明るく生きた方が良い。

 病気になって落ち込んで暗い人の気持ちが分かった。

   

 所詮、自分ひとりでは何も出来ない。

 だから、俺は歌い続けるしかない。

 夢は紅白歌合戦出場。

 歌で感動させて、涙流させて、笑わせる事も夢。

 

 誰がどこで見ているか分からないから、俺は全て全力投球!

 客が多くても少なくても同じ気持ちで頑張ってきた。

 でも、人間欲が出る、欲が出ると歌が濁る。

 だから、植物の気持ちになって歌いたい。

 駆け引きがないから、一生懸命咲いて散るだけだから花は美しい。

 そんな気持ちになって歌うのが目標。

 

 応援してくれた人への感謝のしるしは、元気に歌い続ける事。

 歌えなくなったときが俺の終わり。

 1年でも1日でも長く歌いたい!

 歌い続けたから、櫻田先生や白岩会長、花笠先生、多野先生、他の多くの人に出会えた。

 本当に多くの人に会った。

 ハワイでも歌った時、おひねりが小切手で50ドルだった事には驚いた!

 台湾でも歌った。

 歌う場所があるだけ嬉しい。

 今の自分があるのは、白岩会長を始め多くの人との出会い。

   

 心から出会いに感謝!

 

 

魂で歌う男:木田俊之

 『自分が、これまでやって来る事が出来たのは、「歌が好きだから」

  格好のいい事は言えないし、出来ないけど歌が好き。

  好きな事の為なら、何でも我慢出来る。

  もちろん、妻も子供も支えになっているけど、やっぱり一番は歌が好きだから』

   

 木田がデビュー10周年を向かえた年は、奇しくも発病してから20年目の年でもあった。

 20年間、木田は身体のハンディを抱え続けた。

 しかし、周りが思う程ほど、本人は苦労を感じていなかった。

 階段から落ちたり、転んで顔を縫ったり歯を折った。

 車いすから転げ落ちて、立ち上がれなくて夫婦で泣いた夜もあった。 

 精神的に限界まで追いつめられ、死ぬ事を本気で考えた。

 『生来、楽天的な性格がよかったのかな?

  一度、落ちるところに落ちたら、その後は楽だった。』

 そう、木田は振り返る。

 

 『今は、ファンの皆さんに会える事が嬉しい。

  お客さんの為にも、自分の為にも一生懸命に歌って行きたい。

  お金も食べられる分だけあればいい。心にゆとりができれば、他の人に何かが出来る。

  自分がそれなりに幸せになれば、人に幸せを分けることも出来る。』

 

 木田俊之にとって、歌は命。歌は木田の生き甲斐であり、命の源。

 歌で子供を育て、暮らし、心も身体も支えてもらった。歌が全てだった。

 木田は病気になって初めて、本当の歌の心、温かな人の心、多くの幸せを感じた。

 もし、歌がなかったら、早く病気が進んで、今の木田は居なかったかもしれない。

 結果的に、病気もプラスだったと木田は思っている。

 

 そして、何よりも両親に感謝! 子供達に『ありがとう!』

 妻・智恵子さんには、言葉にならない程に『ありがとう!ありがとう!』

 そして、皆さんに会えた事に『ありがとう!』

 

 難病・筋ジストロフィーを抱え、車椅子に座りながら魂で歌う男『木田俊之』は、夢に向かって・明日がある限り歌い続ける。